囲碁マンガ「ヒカルの碁」で有名になった、江戸時代の棋士「本因坊秀策」。マンガでは、主人公の進藤ヒカルに取り憑いた平安時代の天才棋士藤原佐為の霊が、ヒカルの以前に取り憑いていた人物として有名です。秀策はいったい、どんな人物だったのでしょうか?

江戸時代の囲碁、御城碁とは?

秀策画像

江戸時代、囲碁は大きく発展したと言われています。織田信長、豊臣秀吉に囲碁で仕えた本因坊算砂(日海)が、徳川家康の時代に「名人碁所」に任ぜられ、地位を築いていきます。その後、本因坊家と井上家、安井家、林家の四家が碁の家元と呼ばれ、その四家が互いに切磋琢磨し合ったことが、囲碁の発展に繋がったと言われています。

御城碁は1626年頃より始まった、江戸城で行われる御前試合です。対局できるのは、家元四家の当主と跡目相続人、7段以上の者など、特に優れた者に限られていました。(江戸当時は、最高位7段と言われています。)

本因坊秀策とは

囲碁の黄金期とも呼ばれる、江戸時代後期に活躍した棋士です。秀策は広島県尾道市因島に生まれ、母親に囲碁を教わりました。幼い頃より神童と称され、10歳のとき本因坊丈和の弟子になります。秀策の抜き出た碁の才能に丈和は「150年以来の碁豪である」と絶賛したと言われています。

11歳で初段、15歳で4段、に昇段。また20歳で第14世本因坊跡目となり同時に6段に昇段、丈和の娘、花と結婚しました。翌年から御城碁に出仕しましたが、それ以降19戦19勝という大記録を作りました。

1862年江戸で大流行したコレラのため、わずか34歳という若さで他界してしまいました。

本因坊秀策の人格

秀策は、囲碁棋士としても素晴らしい功績を残しましたが、その人格も謙虚で高潔なことでも有名でした。

秀策を高く評価していた本因坊家は、秀策を将来正式な跡目にしようとしていました。しかし、主君浅野忠敬への忠誠心から頑なに拒否したと言われています。本因坊家の跡目になるという大変な名誉を拒否することは前代未聞でした。(後に跡目となりました。)

また秀策は、師匠に敬意を払い、親や妻を大切にしていたというエピソードが残っています。コレラに倒れたのも、本因坊家の人々が次々と感染し、丈和が止めるのも聞かずその看病にあたったためとされています。囲碁の実力もさることながら、大変な人格者だったことが伺えます。

秀策流

秀策流

小目の方向を変えながら、右上、右下、左下に黒石を配布する。黒7手目のコスミまでを「秀策流」と呼ぶことが多いです。(別名「秀策のコスミ」)

コミがなかった江戸時代ですが、コミのある現代でも十分通用する布石だと思います。秀策も「碁盤の広さが変わらぬ限り、このコスミが悪手とされることはあるまい」と語ったといわれています。

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